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家紋のやりとり

この背景には何があったのでしょうか。

思わず調べちゃいました。

家紋は度々、人から人へ譲渡の対象になっている。だからといって、当時も現在も家紋に関する使用の制限は特別な紋章を除いてなかったため、家紋を譲渡をした側の人間が譲渡した家紋が使えなくなったという訳ではもちろんない。

例えば、典型的なものと言えば、皇族の家紋である菊紋が挙げられる。天皇は功績のある者へ、例えば豊臣秀吉などに授けている。また逆に、天皇から授かった桐紋などを将軍が功績のあった、優秀な家臣や家来に授けることもあった。その習慣は室町時代まで遡り、足利義満が細川頼之に自身の家紋を贈紋したことから始まったと言われる。こういった家紋の受け渡しを、賜与(しよ)などと呼ばれ、授かった家は一家の大名誉として喜んだと言われ、与えられた紋を拝領紋という。室町幕府13代将軍足利義輝が織田信長の父織田信秀に桐紋を授け、その後、信長にその桐紋が父から引き継がれた。その桐紋を肩衣につけた誇らしげにしている肖像画が長興寺に保存されている。また、豊後の大友はその紋を授かった者を「御同紋衆」と呼び、重用したという。

身分の変わらない同格者同士による家紋の譲渡も存在したが、家督の相続や、婚姻によるものが大半である。

家紋ではないが、主に関西地方において家同士の婚姻が主だった折は、女性が嫁ぐ場合に際して、婚家から女紋を持っていく例も見られる(詳細は女紋参照のこと)。


歴史

平安時代・鎌倉時代
家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。聖徳太子が生きていた奈良時代から調度や器物には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、平安時代になると次第に調度品に文様を描くことはの視覚的な美しさだけでなく、公家(貴族)といった朝廷に仕える人々が各家固有の他家と区別する目印としての特色が帯びてきた。そして平安末期に近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路を、まるで誇示するかのようにその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説が最も一般的と言われている。新井白石が「蓋(きぬがさ)」で用いられた紋も家紋の起こりであると自著で記しているが、この説には異説がありいまだ決着を見ていない。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月11日 18:33に投稿されたエントリーのページです。

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